| 問 |
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| 毎朝毎夕にお内仏に向かってお勤めをさせて頂いておりますが、どうも心から喜んでお念仏申せていない時があります。それは、「私は本当にお浄土へ行かれるのであろうか」とか「念仏を申しても救われないのではないだろうか」等とあれこれ考えて(疑って)しまう時があるからです。誠にお恥ずかしい限りなのですが、やはりこんな私の様な姿勢のお称名では救われないのではないでしょうか。 |
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| 答 |
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このような問いは、少しでも仏縁にふれた者にとって必ず生じる問題のような気が致します。しかし、宗教心の根幹に係わる大切な課題ですので、これはしっかりと親鸞聖人の教えに聞いてまいりたいと思います。
親鸞聖人の直弟子唯円(ゆいえん)が、聖人の没後、直接聞いた真実信心とは異なる様々な信仰が出てきたことを歎(なげ)いて書かれたものが『歎異抄』(たんにしょう)です。この第九条の中で、唯円は今回の問答と同じ内容の問いを聖人に告白されておられます。それに対して聖人は、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたもうべきなり。〜中略〜他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」と、この様に仰られております。このお言葉の意訳は次の様になります。「親鸞もこのことを疑問に思っていましたが、唯円房よ、あなたも同じ疑いを持っておられたのですね。よくよく考えてみますと、天に踊り、地を踏んで舞うほどに喜ばねばならぬことを、喜べない私共こそ、いよいよ浄土に生まれること間違いなしと思うことが出来るのではありませんか。〜中略〜他力(仏のはたらき)によって、すべてを救わずにはおかないという悲願は、この様になかなか喜べない我らのためのものであった、と知ることが出来て、いよいよ頼もしく思われることであります。」これは、自分のこころに縛られ、喜ぶべきことが喜べない我々においては、このお言葉の響きと、更には弥陀の本願の意味する深い内容をよくよく吟味しなければなりません。そして、この第九条の結びには、「もし、踊り上がるほどに喜ぶ心があり、急いで浄土に参りたくなったならば、自分には煩悩が無くなったのだろうかと、かえって怪しまなければならないのではありませんか。」という内容のお言葉があります。つまり、我々は自らの深い苦悩によって本願を素直に頂くことが出来ない存在なのである、という事を聖人のお言葉から何か頷かされます。そして、その様なこころでしか生きられない我々というものは、すでに弥陀の本願はお見通しであったのであります。
朝な夕な、日々のお勤めにおいて色々と考え、自己と葛藤する事こそ正に本願と出遇っている証拠だといえるのではないでしょうか。
さっぽろ東本願寺 第120号より |

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