| 問 |
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| お盆が近づくと亡き人のことが気になります。どうすることが一番の「供養」になるでしょうか。 |
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| 答 |
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亡くなった人にどういう供養をすればよいか、後に遺されたものにとっては大きな関心事だと思います。しかしこの「供養」ということの本当の意義を明らかにしないことには、どれほど供養したと思っていても、供養したことにはならないと思います。
一般的に供養というと、死者の霊に諸物を供え、お坊さんにお経を読んでもらうという先祖供養、追善供養だと思われています。それはすなわち生者から死者への供養を指すのであります。特に身近な人を失った時、「あの時ああしてあげればよかった。こうもしてあげられたのではないか」と、様々な悔いや自責の念が湧き、「もう少し長生きしてくれたなら」と、愛着の情の断ち切れないところがあるからでありましょう。
しかし、それらの様々な追善供養は、むしろ遺されたものの恩愛の情断ち難いこちら側の思いであります。
限りあるいのち、無常なる身を知らされることは、人間を悲観のどん底に落としめることではなく、限りあるいのちを自覚することによって、かえって永遠なるいのちに触れ、無限なる世界のはたらきを信知せしめられるのであります。
蓮如上人は『御文』のなかで、「後生の一大事を心にかけて」と述べられ、それは死後の世界を思い計ることではなく、ただ今の私の足もとにある死を直視することであり、そこに永遠なるいのちのはたらきの中で自身が生きておったことの素晴らしさ、不思議さに目覚め、今を悔いなく精一杯生きて行く生き方を、はっきりさせていくことである、と教えて下さいました。
それはただ単に追善供養を否定していくことではなく、我々人間の心で要求していく事柄は一切間に合わず、そこから見開かれる仏の智慧に出遇う中に、真宗門徒としての名告りがあり、念仏者としての生き方があるように思います。
お盆会はまさに身近な人を失って初めて気がついた人間の普遍なる願いに立ち返り、仏法聴聞の大事さをいただく聞法供養の時と言えましょう。
さっぽろ東本願寺 第111号より |
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