| 問 |
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| 真宗の本尊は木像、絵像、それに名号の三つの形であらわされますが、これらは偶像とは違うのですか。 |
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| 答 |
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我が宗旨においては、真宗の本尊は阿弥陀如来、一仏をもって本尊とすると定められています。すなわち本尊とは、「本願の名号」あるいは「本願の尊号」ともいわれ、そもそも言葉としての名のりであり、決してものがらとしてあるのではないということであります。それならば何故、木に刻んだ姿や絵姿であらわす仏像があるのか、素朴な疑問が残ります。
本願の名号とは、人間の考えやはからいを超えて出てくる如来の名のりなのです。つまりその名のりを聞くことによって、人間のもちえた知識、分別というものがひるがえされる用き(はたらき)そのものなのです。
そのことは、具体的にいえば親鸞聖人がいわれる「よきひとの仰せ」であり、そのよきひとをしてひるがえさせた用きが名号にまでなって名のりでておられるわけです。
この名のりとしての名号を人間に近づかさんがために絵像となり、木像となって「真実の自己に目覚めよ」と用きかけてくださっているのです。その意味では名号のいわれを聞かずして姿、形のものがらに執着するならば偶像になるといえましょう。
また、仏さまを偶像化し、実体化すれば必ず人間の現世における欲望の対象となり、そこには仏さまの真実の願いが全く聞き開かれることはないのであります。
さっぽろ東本願寺 第93号より |
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