| 問 |
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| お葬式の時に浄土真宗では「清め塩」を使いませんということを見聞きしますが、何故でしょう。 |
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| 答 |
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古来より仏事を営む上で、習俗、因習にまつわる迷信は数多く残されています。中でもお葬式の時に「清め塩」を使う風習は、特に根深いものがあるように思います。
「清め」の言葉の背景にはもともと「穢れ(けがれ)」の思想がそこに滞在しているのであります。
日本では古来より人の死を「死穢(しえ)」とし、死や死者を不浄なるものとして捉えて来た歴史をもっております。そのためにその「死穢」を「ハライ」、「キヨメ」の儀式を行い、「ハレ」に転換するというのであります。「晴れ着」の言葉もそこから生まれたのであります。
しかし今、なぜ「キヨメ」に「塩」が使われているのかといいますと、ある本に『古事記』の神話によるのだという説が述べられております。
それはイザナギノミコトが黄泉(死)の国からこの世に帰って来たとき、黄泉(よみ)の国は不浄の世界であったと告げ、穢れた体を海水で清めたとされています。その海水を「塩」と「水」に分けて「キヨメ」の道具になったのだというのであります。
現在も大相撲の塩と水、料亭などの打ち水と塩、そしてお葬式の時の塩と手桶水はその流れを受け継いだものといえます。
しかし、仏教は「生死一如」の道理を明らかにし、決して「死」を穢れとして忌むべき事柄としてあるのではなく、死の事実に身を据えて人生を引き受けて行く道を教えられたのであります。
「生のみ我等にあらず、死もまた我等なり、我等は生死を併有するものなり」
これは、先達の名句であり、心して味わいたいものであります。 |
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