真宗問答
 1  2  3  4  5  6
 7  8  9 10 11 12
13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24
25 26        
テレホン法話
ひがほんこども会・こども広場
機関誌『東本願寺』最新号
出版物のご案内
真宗大谷派札幌別院
〒064-0807
北海道札幌市中央区
南7条西8丁目290
TEL:(011)511-0502
FAX:(011)521-4339
E-Mail
Map
真宗問答
ある人から真宗門徒の家に「お内仏」があるにも関わらず、さらに「神棚」がおかれているのはおかしいと言われましたが何故でしょう。

 「神棚」を置くことがおかしいと指摘したその人の理由は、どうも真宗門徒の家だからということが根拠になっているようです。
 しかし、それはもう少し問の内容を深めなければならないように思います。
 単に真宗門徒の家には「お内仏」が安置されているから「神棚」は要らない、という形だけの問題なのか、それとも真宗門徒の名告りの中に「神棚」が問題となる必然性がそこにあるのか、その見極めが大事であるように思います。
 そもそもその「神棚」とは「神が安置されている所」、そして、その神は人間の要求を聞きとり、実現してくれる可能性をもった存在として仮定されているのです。
 だが、その要求は、人間の欲望を写し出す八百万の神々を実現させるもとにもなっているのでありましょう。
 ある先生のお話の中で、日本の八百万の神々を集約すれば、それは三つにおさまり、
 一つは五穀豊穣を祈る「生産」の神、二つには無病息災を祈る「健康」の神、三つには息災延命を祈る「長寿」の神であると言われました。
 しかし、これら人間にとって素朴な神というものに対する祈りにはちがいないが、所詮、生死無常のこの世にあってかなわぬものとして教えるのが仏教であります。
 単に「神棚」を否定するのではなく、人間の心で要求する事柄は一切間に合わないものだ、見開かれる仏法の智慧に遇う、そこに門徒の名告りがあり、念仏者としての生き方があるように思います。
 すなわち、この問から「神棚」に用事のない生活が自然に開かれることを教えて下さった言葉としていただきたいものです。

 さっぽろ東本願寺  第100号より