| 問 |
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| お葬式や法事の場で、僧侶が分からんお経を読まれるのはどうも腑に落ちません。如何でしょうか。 |
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| 答 |
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この問の言葉の中には、世間一般の考え方、把え方の率直な疑問として投げかけられているように思います。もう少し問を広げるならば、仏教儀式の中に必ず読経(経典読誦)作法があるが、それは亡くなった人に読み聞かせるために行われるのか、または生きているものに向かって読んでいるのか、いずれにしても、聞いていて分からんお経が何故、読まれるのかという問でありましょう。確かに漢文で音読される経典は、分かる、分からんの分別で把えるならば分からんといった方が正直なのかも知れません。
しかし、少し飛躍する言い方かも知れませんが、私どもの人生は果たして分かるからする、分からんからしないということだけで成り立っているものかどうかということであります。むしろ、具体的な生活のことになればなるほど分からんことだらけが私の人生の中味ではないかというおもいがいたします。
今、読経のことに限って言えば、それは他に読み聞かせる道具ではなく、読む者、聞く者が共に釈尊の説法の会座に集って、我が身の人生の一大事を聞き訪ねる法縁の場として開かれているのであります。
経典の読誦は、人間の分かる分からんを超えて言葉の響きを聞きとり、人生の真実を伝えた歴史があるのであります。
さっぽろ東本願寺 第101号より |
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