| 問 |
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我が家では毎月、亡き人の命日にお寺さんに来ていただいて「月忌づとめ」をしてもらい、先祖の供養を行っています。
果たしてそのことで亡き人を本当に満足させる供養になっているのでしょうか。 |
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| 答 |
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日本仏教の伝統行事は、すべて「先祖の供養」という言葉で代表され、その供養方法は「お坊さん」にお経を読んでもらうという先入観念が、いつからともなく人々の心の中にしみこんでいるようであります。すなわち、お坊さんに読んでもらうお経には功徳があり、生きている者が亡くなった人に対してしてあげられる唯一の善行だという考え方が根底にあるからでありましょう。
ただ、このことは頭から否定はしませんが、そのように捉える先祖供養の心と、今問の中の言葉にある「亡き人を本当に満足せしめることになっているのかどうか」という不安な心との間には乖離(かいり)があり、一向に落ち着かないものがあります。
すなわち、我々「先祖供養」というけれども、ただ形式的なことに終始し一体どうなることが本当の先祖供養になることなのか明らかになってこないからでしょう。
しかし、よく考えていただきたいことは、亡き人はすでに人間として業を果たし遂げられた人、生きているものが執着する思いの世界を越えられた人であります。それ故、満足・不満足の世界を亡き人に尋ねられても亡き人は応えられません。
むしろ、それは今日只今を生きている自分自身の問題であります。
すなわち浄土真宗の教えの上では、生きている者が亡くなった人に対して心をふり向けることが先祖供養ではなく、亡き人は、すでに人間としての迷いを離れ、生きている私達に真に人間としての「めざめ」を要求するはたらき、すなわち諸仏としてその存在をいただくところに供養の心があるのだと思います。それを聞法供養といい、限りない人間の自覚を与えて下さるのであり、それこそが、真に、亡き人に応える道であると念仏の教えは伝えて来たのであります。
さっぽろ東本願寺 第106号より |
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