| 問 |
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| 人間が亡くなって四十九日法要までの間を「中陰(ちゅういん)」というようですが、一体、どの様な考え方から生まれたのですか。 |
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| 答 |
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私たちは、人の死に出遇う時、様々な聞き慣れない言葉や聞きなれていても意味がはっきりしない言葉に遭遇します。この「中陰」という言葉もその一つかもしれません。
そもそも仏教が伝えられた歴史の中で様々思想背景が混入し、中でも輪廻転生の思想といって、人間はこの世で死んでも次の生に生まれかわるという考え方がおこり、そこに「中陰」の言葉の由来があるように思います。
すなはち人間が生死(迷いの世界)に流転する過程を四有(中有・生有・本有・死有)に分け、前世の死の瞬間(死有)から次の世に生を受ける刹那(生有)までの中間を”中有”とか”中陰”という言葉で表すようになりました。
また、このことは日本仏教の中において霊魂の思想と結びつき、さまよえる死者を慰霊鎮魂するための追善供養を行う期間だと考えられて来ました。
しかし、同じ日本の仏教にあって宗祖親鸞聖人の教えの中には、人間の死後、死者が迷える存在という考え方は全くなく、むしろ現にこの世に生きている人間そのものを生死苦悩の身(迷える存在)ととらえ、決して仏教は臨終の死だけを問題にする教えでないことを明らかにして下さいました。そのことは『末燈鈔』の中に宗祖は、
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚(しょうじょうじゅ)のくらいに住す。このゆえ、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり」と述べられ、人間にとって大事なことは死後を死後のこととして考えることではなく、現在只今の人生をいかに受け止め、どう生きるか(現生不退・げんしょうふたい)そこに真の人間の救済(安心・あんじん)ということを問題にされたのであります。
そのためには、この世、この身が生死の世界であることを深く知り、その生死の世界の中に人生の本当の意味を訪ねていく、それを往生浄土の道として教示なされました。
人間は厳しい死の事実と真向かいになる時、初めて今まで自分の頼りにしていた思いや考えが一切間に合わんことに気づくのであります。
今、真宗仏教における「中陰」とは、決して死者の迷える期間ととらえるのではなく、むしろ人の死を縁として、私自身が確かな世界に出遇っていく仏法聴聞の期間とし受け止め、亡き人はこの私をかぎりなく覚めさせて下さる諸仏としていただく、そこに念仏生活者の大事な歩みがあるように思います。
さっぽろ東本願寺 第110号より |

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