| 問 |
 |
| 時々「他力本願的な人生は駄目だ」ということを聞きますが、それは他に頼って生きるという意味なのでしょうか。 |
 |
|
 |
| 答 |
 |
一般的に他力本願というと、他人や他事に頼っては駄目ということとして使われているようですが、本来の意味とは全く質を異にする言葉です。
親鸞聖人は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『教行信証』)と教えて下さっておられます。つまり、何を依り処として生きるのかを見失い、迷って生きるものに、”真実(本願)に目覚めて生きよ”という教えとして受け止めた言葉なのです。私たちの日常性は自分が生きていることを当たり前と考え、自分の都合や思い(・・・つもり、・・・はず)を中心に生活しています。これを自力というのですが、ここに人間の深い問題があるのであります。
たとえば、「雨」というのは自分の思いに関係なしに降るのですが、自分に都合がよければ「いい雨」といい、都合が悪ければ「悪い雨」といいます。そして雨が「降りませんように」とか「降りますように」といって自分の思いがかなえられることを是とするような生き方しか見えなくなってくるのです。すなわち、私たちの目の前で起こっている事実を事実として認められなくなって来ます。起きてくることは事実であって、それを良い、悪いとしているのは自分の都合であります。仏教ではそのことを自力の執心といいます。もしそのことに気づくことができれば、自分の考えや思いを絶対的なものとすることは、間違いだと分かるのです。このように私たちの人生は自分の思いや考えで成り立っているのではなく、事実そのものの中に人生があるのです。
私たちは、有形無形のはかりしれないいのちをいのちとして生きています。有ること難いこの事実に不可思議さを感覚して生きることを「他力」というのであります。 自らの微小さを思い知り、生きていることのうえに、大きなはたらきを感じていく、それを「往生浄土」の道と先達は教えて下さっています。 |
|